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黒沢清の「21 世紀の映画を語る」を読んだ衝撃

BeauMale
2012.4.2

数日前に、黒沢清監督の「21 世紀の映画を語る」という講演集を読み終えた.黒沢清は北野武と並んで世界レベルで日本の優れた監督である.この監督の映画は「神田川淫乱戦争 (1983)」という日活ロマンポルノから始めて「ドレミファ娘の血は騒ぐ (1985)」と見ていたがその後の怪奇映画にはついて行けなかった.併し、最新作の「トウキョウソナタ (2008)」を観、ついで「アカルイミライ (2002)」を観てこれはただ者ではないと煙管をしてしまったことを大いに悔やんでいる.その監督の講演集だということや、蓮實重彦との対談を幾つか読んでいるのでこの本も購入した.最終章が「21 世紀の映画」だが、その前の各章も映画の現場のことは何一つ知らないものにとっては非情に面白い.併し、本当に衝撃を受けたのは最終章の「21 世紀の映画」である.21 世紀の映画の共通する特質として突然の外部の露呈だとある. これには驚きうろたえさえし、このことが気になってしようがない.

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幾つかの例を挙げているがその一つがスピルバーグの「宇宙戦争」その中でトイレだと云って遠くに行くなと云う父トム・クルーズの言葉に逆らってどんどん進んで行き河に到着すると少女が立ちすくんでしまう.河には夥しい死体が流れてきたのである.これが外部の露呈、内部への侵入である.このシーンには筆者も違和感を感じて、前に書いた時にもこのシーンは取り上げた.併しそこまでは解らなかった.

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もう一つこれも違和感を感じたが車を群衆に奪われ持ってきたピストルも奪われ親子三人が喫茶店に逃げ込んで座っていると外ではその奪われた拳銃が発射されてその銃声が聞こえて来る場面.これも違和感が理解できずに取り上げさえしなかった.外部の暴力の原因が内部にあってそれが不意に露呈するという画面、これこそが 21 世紀の映画なのだという.

父トム・クルーズはピストルを持参して車を奪おうとする群衆に向けたが、銃を持っている相手からも突きつけられて銃を捨てまだ車に残っていた娘を窓から抱き上げ息子を呼んで後ずさりする.

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捨てた拳銃は別の男が拾う.

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そして三人は近くのカフェーに逃げ込むのだが、この画面は違和感を感じたのである.何故こんな所に逃げ込むのか.

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所が、外で銃声がするのである.銃声が外でする画面のためにこのシーンは必要であるのは解ったが、でも何故喫茶店なのか.

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硝子窓越しに外が見える.さっき拳銃を拾った男らしい姿も見える.これこそが外部の露呈、そしてその原因はトム・クルーズが所持してきた拳銃で起きている.とこの本の説明でなるほどと思ったし、思考を停止したことが悔やまれる.

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そして外部の露呈は河で起きるというか 21 世紀の監督は河を好むとある.黒沢清監督自身の映画では河はどう扱われているのだろうか.「神田川淫乱戦争」の時から既にそうだったのか、この映画で神田川がどう映っていたかは全く憶えていない.下は黒沢清のもっと新しい作品「アカルイミライ」で増殖した猛毒の海月が夥しい数で河を下っていくところ.これはそうなのだろうと思う.

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しかし、黒沢清の「トウキョウソナタ (2008)」はどうだったかなと下の写真の二枚目は直ぐ解ったが一枚目は忘れていた.米軍に志願してしまう息子がアルバイトのちらし配りの余ったのを友達と河へ捨てる場面である.二枚目は、小泉今日子が夫の香川照之が失業を家族に隠していたのを、救護所のような所で他の失業者やホームレスと一緒に食事を貰って食べているのを発見するところである.この映画になるとその露呈はあからさまではないが確かにそうだと言える.

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昨晩観たゴダールの「アワーミュージック(2004)」は 21 世紀の映画であるが果たして河はどう表現されているかが気になってしようがない.映画は三部に別れ最初の「地獄編」は戦闘場面の連続で過去の映画から短く引用され、ピアノの和音がその間ずっと鳴っている.二番目は「煉獄編」でサライエヴォの街の中の話である.河が登場しなくとも煉獄は地獄と背中合わせだと解る.その中に突如河が出現した.最初の二枚である.橋が内戦と民族浄化の泥沼の中で破壊されそれを修復しているがその橋の断片の石が川底から引き上げられ番号が付されている.次の写真は橋からワンショットで移動した透明な流れの映像である.アンゲロプロスだったと思うがのサライエヴォを題材とした映画は河に死体が累々と流れてきた様子が映されていた.この映画はあくまでも透明で美しい流れである.この外部の露呈を読んだからなのかこの透明な河にも死体が流れていたのだろうと想像はする.

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次の二枚は「天国編」なのだがこれが理解できなかった.米兵が釣りをしている河.最後のは波の様子から海なのではと思うが載せておいた.

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ゴダールの「愛の世紀 (2001)」のセーヌ河は果たして外部の露呈なのだろうか.筆者はこの映画の主題の愛が水と関係していると思っているが、よく解らない.

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筆者が最も二十世紀的だと思う監督、ジャ・ジャンクーは果たして河を描いていたかと思ったが「長江哀歌(エレジー) (2006)」はまさに河の映画である.併しこれには外部の露呈は感じなかった.

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いずれにせよこの本には映画をどう観るかに関して非常に大きな衝撃をもたらした.他にイーストウッドの「ミスティック・リバー」も取り上げてあってこれは理解できる.この映画の何かどろどろしたはっきりしないものはそういうことだったのだ.この本は講演録であるが最後に

二一世紀の映画はあまりに不吉で、暴力に満ちているのですが、まったく救いがないのかというと、決してそうではない。暴力や死や不幸はもちろんいたるところにある。しかし何かはわからないが、救いはある。そして、その救いもまた、外側の、しかもすぐそばにあるかもしれない。まだ見えていない.まだ映画のなかに描かれてはいないけれども、映画のすぐ外側、すぐ隣にひょっとすると希望があるのではないか。そしてじっと待っていると、フレームのすぐ外側から、いよいよ希望の輝きが差し込んでくるのではないか。そんなことを感じさせる、二〇世紀の傑作の一本、『ラルジャン』をご覧ください。

といって、ブレッソンの「ラルジャン (1983)」が映されるのだが、何度も「ラルジャン」の最後の斧による突然の一家惨殺して自首で終わる画面を観たが、これほどいきなりの匿ってくれて食事と寝場所を提供してくれた一家の殺害という暴力は何処に救いがあるのだろうかと首をかしげるばかりであるが、まだまだ映画の観方が甘いと思い知らされる.

その後「ラルジャン」を見直して書いたのだが、
ロベール・ブレッソン「ラルジャン」という映画の希望は?

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